日本車の歴史、民需用と軍需用について

日本車の歴史、民需用と軍需用について

国産第1号と言われる日本車は1904年の「山羽式蒸気自動車」が電気技師・山羽(やまば)虎夫によって製作されています。

目的として乗合自動車として使う計画でしたが、ソリッドタイヤがリムから外れるトラブルに悩まされ続け計画は頓挫してしまいます。

このように、日本車の歴史はまず、民需用として使うことを前提に進められてきました。

そして、明治末期から大正にかけて国産化が数多く試みられてきましたが、工業力の低さからなかなか上手くいきませんでした。

また、GMとフォードがノックダウン生産を国内で始めると日本車の市場はなくなっていきました。

そんな中、1936年にトヨタ自動車の前進である豊田自動織機製作所自動車部がトヨタAA型乗用車を開発しました。

これは当時のアメリカ車に匹敵する5人乗りの排気量3400ccというものでした。しかし、まだまだ技術的的限界から品質や価格では当時の日本製アメリカ車にはかなわなかったとされています。

また、この時代の日本車はトラックが中心であり、やがて戦争の機運が高まっていくと同時に軍需用のトラックの製造が開始されていきました。

そのため、民需用の乗用車の開発は中断を余儀なくされてしまいました。しかし、この軍需用のトラックの製造が戦後の乗用車開発への大きな布石となっていったのもまた事実です。